2013.10.6(日)夜6:30放送
テレビ朝日『奇跡の地球物語』で竹田城が紹介されました。
『天空の城 竹田城~時空を越えた建築技術~』
#189 2013.10.6天空の城 竹田城~時空を超えた建築技術~
兵庫県朝来市。山間に冷たい空気が流れ込む秋の早朝。
一年間でこの季節だけ雲海に浮かぶように現れる荘厳な姿。
日本のマチュピチュとも呼ばれる竹田城だ。
その姿は、まさに「天空の城」。
築城から400年以上、幾度となく地震に見舞われながらも、決して崩れることのなかった石垣。
この石垣を作った職人集団の技術を受け継ぐ者たちが、今なお存在する。
15代目「石の声を聞けという言葉が私のとこにありますんでそれが聞けるようになったら一人前ということ。」彼らの作る石垣の強さの秘密を探るため修復作業に密着!
さらに、地球の反対側マチュピチュの石垣と比較。
すると、現代の地震対策にも通じる古の職人の技と知恵がそこにはあった。
今夜は『天空の城・竹田城』 400年の時空を越えた建築技術の秘密に科学が迫ります!
日本の城。戦国時代から江戸時代にかけて、建築技術の粋を集めて築かれた。
大阪城は、安土桃山時代、豊臣秀吉が贅の限りを尽くして築いた。
平坦な土地に建てられた「平城」と呼ばれるものは、防御のために周囲を掘りと石垣で守っている。
時代を遡り、戦国時代に築かれた初期の城の多くは、戦うことを目的とし、敵が攻めにくい山の上に築かれた。
「平城」に対し「山城」だ。その代表とも言えるのが、兵庫県朝来市にある竹田城。
南北約400m、東西約100m。現存する山城として日本屈指の規模を誇る。
長年に渡り、城の建築技術を研究している広島大学・三浦正幸教授とともに竹田城へと向かった。
三浦教授「この石垣の上には天守閣を始め、たくさんの建物があったのですが、それが410年くらい前に全て取り壊されて、現在では建物の土台となっている石垣だけが残っています。」
三浦教授が注目しているのが、400年以上変わらぬ姿を保ち続ける、この石垣だ。
三浦教授「自然石ですから、形がかなり自由な格好をしています。特に大きな隙間ができるというのが、野面積という石の特徴なのです。野面積は見た目が隙間だらけで、あまり美しく見えない人もいるかもしれませんが、耐震性能は遥かに強くて、どんな大地震が来ても崩れないといってもよいわけです。」
事実、この近辺は、これまで幾度となく地震に見舞われてきた・・・にもかかわらず、400年間崩れない石垣。その強さの裏側には、石垣作りを生業とした専門の職人集団がいた。
その名も「穴太衆」。
戦国時代、すでに地震に耐える高い水準の技術を持っていた彼らは、その能力を買われ、織田信長に安土城の石垣を任された。その後、竹田城・高知城・彦根城の石垣も建築。
そんな職人集団「穴太衆」は、今も存在している。
技を代々受け継ぎ石垣専門の建設会社として、城の修復も行っているのだ。
穴太衆の石垣はなぜ強いのか? ・・・その答えを求めて、竹田城と同じ野面積で築かれた高知城へ。
実は今、穴太衆の手によって江戸時代以来初めてとなる「大手門」の石垣の修復が行われている。
修復を担当している粟田純徳さんは、「穴太衆」の15代目。
石垣を全て解体し、弱っている部分を補強し、石を積み直すのだという。
この日は、一段目の石を外す作業。
石垣をよく見ると、ひとつひとつの石に番号がふってある。これは一体・・・。
15代目「積み直す時に、その所(同じ場所)に石を置くための番号です。今回1カ月半くらいかけて取り外して、それから積み上げに1カ月半~2カ月かけて、また元に戻します。」
穴太衆が生み出した野面積の技術は、400年前に既に最高の水準に達していた。
だからこそ、修復作業では石を寸分違わぬ場所に戻すことで、強度を最大限に引き出すのだ。
15代目「野面積というのは、規格の石ではなくていろいろな石があり見た目は悪いですが、中でしっかり噛んでいるという部分では強度的には強いです。」
隙間だらけの野面積。外見からは想像もつかないほど強度があるという・・・一体なぜなのか。
穴太衆の資材置き場で、石積みの技を見せてもらった。ずらりと並んだ石垣用の石。
形はバラバラだ。石を選ぶのは14代目。何を基準に選んでいるのか?
14代目「あそこに入る石、どれが行きたいんや? ・・・っていう気持ちで、石に聴いている。そうすると大体手を上げているような感じで石が目に留まる。『石の声を聴け』という言葉が私のとこにありますんで、聴けるようになったら一人前ということなのです。」
『石の声を聴く』とは一体どういう事なのか? 14代目が選んだのは800kgもある大石。
その大石をたった1本のワイヤーで見事につり上げた。
瞬時に石の重心を見極める職人ならではの技だ。
この石選びにこそ、大きな地震にも耐える強さの秘密があるという。
下にある石の形に合わせて、石が乗せられた。一見、隙間があって不安定に見えるが・・・これで大丈夫なのだろうか?
14代目「この石を見てもらうとわかるように、接点は先端じゃなしに、少し入った(奥まった)ところで接点を持たせているんです。」
『石の声を聴く』というのは、下の石と奥で接するようになる石、さらに置いたときにしっかりと安定する石の形を、見た目だけで瞬時に見極める『目利き』の事だったのだ。
すると、置いた石の隙間に、小さい石を詰め始めた。これも強度を高めるための技なのか?
14代目「戦国時代なんかは、これをポンと石を差しとくわけ。登って来られてこれをクッと持ったらコロンと。防御の一つになっています。」
強度のみならず城を守るという実用性も兼ね備えた「野面積み」。
続いて、地震に強いその秘密を探るために皇居へ。
実は、現在は皇居になっている江戸城の石垣にその秘密を解く鍵があるという。こちらが皇居の石垣。
竹田城と違い石は多角形に加工され隙間なく積まれている。これを野面積に対して「切込接」と呼ぶ。
一見すると隙間なく積まれた「切込接」の方が、強度があるよう見える。しかし…。
石垣にはズレがある。東日本大震災の時に、大きく広がったのだという。
三浦教授「江戸城のように、切込接という丁寧な石垣を使った例は、将軍家の権威を示すためには大変都合がよかったんですけども、地震に対する強度・耐震性につきましては、切り込み接ぎよりもこちらの野面積の方がはるかに優れています。」
戦国の世を過ぎて建てられた江戸城は、徳川幕府の威厳を示す「政治的な役割」が大きかった。
石が隙間なく並ぶ美しい石垣は、まさに権力と贅沢の象徴だったのだ。
隙間なく積まれた江戸城の石垣と比べ、隙間の多い竹田城の石垣の方が強度は高いという。
なぜ石同士が表面よりも奥で接するだけで強度が増すのか? 実験を行った。
切込接の様に、表面でぴったり接するように加工した石と、野面積の様に表面よりも数センチ奥で接するように積み上げた石。同じ台の上に積み上げ、揺らしてみる。すると・・・。
三浦教授「隙間が全くない石垣の作り方、その場合では石垣の一番表面で上と下の石が接合します。揺らされますと表面の接合部がすぐにずれてしまう。野面の石垣というのは、石垣の表面から大体30cm以上奥で上下の石が接合しています。数センチ動いたくらいでは、全く影響はないわけなのです。」
石同士が表面よりも奥で接すると、接点から表面まで距離があるため、その距離分は石が動く余裕が出来る。
そのお陰で、多少の揺れがあっても重ねた石は簡単にずれ落ちないのだ。
反対に石同士が表面で接していると、揺れによって接合部分が動けば簡単にずれ落ちてしまう。
穴太衆の職人たちは、科学が発達していない時代に、石の選び方・置き方を工夫することで、揺れに強い石積みの方法を生み出していたのだ。
さらに、驚くことに竹田城の石垣には現代の地震対策に通じる「ある技術」が秘められているという。
その謎を解くカギは地球の反対側、南米ペルーにあった。
日本と同じく地震の多い環境にありながら、500年に渡って崩れることなくその姿を保ち続ける石積みがある。世界遺産マチュピチュだ。
カミソリの刃も通さないと言われるほど、ピタリと組み合わされたマチュピチュの石積み。竹田城とマチュピチュの石積みの比較で、職人たちの驚くべき知恵が明らかになる!
標高2400mの山に築かれたインカ帝国の天空遺跡「マチュピチュ」。
なぜ500年以上前に作られたこの石積みが崩れることなく、今日までその姿を残すことができたのか?
今なお残るインカの石積みと竹田城の石垣を比較すると、そこには現代に通じる地震対策の技が見えてくるという。
マチュピチュと同じ技術で作られている、クスコ(都市)の石積み。
1950年にはマグニチュード7の大地震が襲ったが、インカ帝国時代の石積みはびくともしなかった。
そこにはどんな技術があるのか?
今回、現地の石工職人に当時の石積みの技を再現してもらった。
材料となる石は、四角いブロックのような形をしている。
江戸城の切込接と同じ形かと思いきや、奥が細くなっていないのだ。
マチュピチュの石積みは、切り込み接ぎと違い、上下左右の石同士を徹底的に密着させていた。
西浦教授「崩れるのは困るんですよ。地震において、崩れないと言うことは、より一体化すれば崩れない。(一体化させることで)全体として動くから、一個の石に限りなく近づくわけで。それは強いですよ。」
一見、ただ石でコツコツ叩き、削っているだけに見えるが、実はそれぞれの接合部分が完璧にかみ合うよう石を削り、一枚岩のように一体化させていたのだ。
上下左右の石と完全に密着させ、一体化させることで、地震の揺れに耐える構造。それは現代の「耐震構造」と同じなのだ。
一方、竹田城の石垣には、「耐震構造」とは異なる技術があるのだという。
西浦教授「地震に対する力を考えると、インカの場合は『とにかく耐える』というのが、耐震構造なのですけど。それに対して、日本のお城というのは、地震の力を吸収してくれる。いわゆる制震という風に言われていると思います。」
竹田城の石垣に見られる沢山の隙間。これが、地震の時に石が揺れても力を吸収する「制震構造」になっていたのだ。
この異なる地震対策が生まれた理由には、それぞれの国の時代背景が大きく関わっているという。
三浦教授「マチュピチュというのはいわゆる人が住む都市です。都市を造るためには地道に長い時間をかけて作っても構わないんですが、竹田城の様な城ですと敵が攻めてくる危機感がありましたから、早く造らなくちゃいけません。」
一説によると、完成までに100年以上かかったのではないかと言われるマチュピチュ。それに対し、限られた時間の中で城を築く必要があった戦国時代の竹田城。早さと頑丈さを突き詰めた形が野面積だったのだ。
石積みの方法、そこにもその国ならではの進化があり、その技術は今なお受け継がれているのだ。
秋から冬にかけて竹田城が見せてくれる絶景。
麓を流れる円山川から発生する朝靄が山を駆け上がり、一面を埋め尽くす・・・雲海だ。
そこに、姿を現す天空の城。
日の出前から午前8時頃に多く見られるという。
天然石の形を見極め、積み上げるという行為だけで、高い耐久性を勝ち得た穴太衆。15代目は言う・・・
15代目「先人以上の仕事ができれば最高なのですが、これ(修復中の石垣)が400年もっているので、400年以上もつように仕事をしたいと思います。」
竹田城の石垣。
それはまさに現代の建築技術の礎。
時を越えて自然の力を巧に利用する叡智を教えてくれている。
<今回の出演者>
広島大学 /教授 三浦正幸氏
国士館大学 /教授 西浦忠輝氏
粟田建設 /穴太衆14代目 粟田純司氏
粟田建設 /穴太衆15代目 粟田純徳氏
- 2013年10月07日
- 日記
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